昭南島の影を追って:Former Ford Factory を訪ね日本人のメンタリティーを考える
みなさんこんにちは、
再びプチロックダウン令が発令されているシンガポールですが、今週から無事息子たちの学校も再開したので、先日 Upper Bukit Timah の山近くにひっそりと佇む Former Ford Factory にひとりで行ってきました。
息子たちの学校からすごく近かった。
Former Ford Factory って何のことですかと思われると思いますが、実はこの場所は1942年2月15日、当時シンガポールを支配していたイギリス軍が、マレー半島からシンガポールへと攻めてきた日本軍に無条件降伏のサインをした部屋が残されている、歴史的な瞬間が刻まれた建物なのです。
山下司令官イカツイですね。まさに降伏のサインをしている瞬間のビデオを撮影したのでアップしたかったけどやり方がよくわかりませんでした、泣。山下司令官、すごい剣幕でイギリス軍のアーサー司令官に迫っていました。
建物はその名の通り、もともと車メーカーのFord社の工場であったのですが、1941年に現在の場所に移転されてからまもなく、戦時中はイギリス軍の軍用車製造に利用されたり、翌年日本軍の支配下に移ると日本軍の Headquarter として、また日産により日本軍用車の製造にも使用されていました。戦後 Ford社に施設が返還されてから1980年に閉鎖となり、現在はシンガポールが日本軍の支配下であった時代の様子などを展示した施設となっています。
わたしはなぜこの施設に行ったのか!?
それは何を隠そう、シンガポールがかつて日本軍の支配下であった時代、昭南島であった時代が、現地の人々にとってどんな時代であったのかを知るため。
イギリスの支配下から日本の支配下に移るということが現地の人々にとって何を意味していたのだろうか。
結論は、想像通りではありましたが、ひとことで言うと悍ましい恐怖と不安の3年半でありました。
イギリス軍の降伏が報道された夜、これから起こりうる未知への恐怖に覆われたシンガポールは異様な静寂に包まれていたという証言があって印象に残りました。
突然の昭南島と地名の変更、日本語教育の導入や、西暦から年号システムへの変更がされたことなどはさることながら、中国系民族のほぼ無差別な人殺し、捕虜兵などの奴隷的利用、占拠後に逼迫していく日本の戦時状況による食料難など、終戦まで続いた日本軍の支配は、シンガポールの歴史上まさに最悪の時代であったのです。
特に目を引くのが The Sook Ching Operation と呼ばれる中国系民の大量虐殺。
抗日分子の処分を名目に実施されていましたが、実際は選別方法も一定ではなくほぼ無差別の虐殺でした。
スクリーニングセンターに呼び出された華僑たちは、憲兵隊により尋問を受け10人ほどずつトラックに乗せられて虐殺場へと連れて行かれていたのです。
その上、この銃殺の様子はとりわけ周囲に隠されることもなく、現場近くの住民は遺体の処理もさせられていたという事です。
見せ付けですね。なんて恐ろしい世界。
1945年、終戦とともに昭南島はイギリス軍に再び返還されるのですが、これは市民にとってどれだけ安堵の瞬間だっただったことでしょう。
日本軍降伏セレモニーの日、「馬鹿やろー」と罵る大衆の姿を前へと肩を落として会場から出てくる日本軍の姿の映像を見た時は、日本人として正直情けなかったし、居た堪れなかった。
日本はなんでこんなことをができたのだろう。
もちろん戦争という異常な状況下では全ての人のマインドは歪んでコントロールされた状態にある。なので個人を責めることは間違っている。
しかし、日本国として、政府として、軍として、組織として、支配した土地だから無罪の一般市民を大量虐殺しても構わないというメンタリティーが存在していたという事実。
言い換えれば、社会的立場の上の者は、社会的立場の劣る者の人権を奪っても構わないというメンタリティー。
そしてこのメンタリティーは少なくとも今でも我々日本人の中に潜在的に残っていると私は思っている。もちろん人殺しをして良いと思っている人はいないと思うけど人権とはそれだけではないので。
過労の問題や、難民不当扱いの問題などはその一例であると思う。
なので、今の私にできることは、トップダウンのメンタリティーを完全に自分から取り除く努力をすること、そして子供たちにも社会的弱者の人権を軽んじることは大きな間違いであるということを教えていくことであると考えたのでありました。
それではまたね!